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![]() | ◆著者プロフィール 石川真理子 フリーライター・プランナー・出版プロデューサー 広告から女性誌、書籍まで、執筆およびプランニング・プロデュースを手がける。『いまも生きる「武士道」 武家の女性の精神を貫いた祖母の教え』が“女武士道”として話題を呼んでいる。 ★ホームページを立ち上げました! ≫「凛と生きる!女武士道」 |
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| vol.134 大正元年生まれの叔母 | |
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7月25日の午後2時ごろのことでした。 大正元年の叔母が、1世紀近い生涯を閉じました。 祖母の長女で、私の父とは20歳近く年がちがうため、父にとっては姉というより母親のような存在でした。 だから私にとってはもう一人の祖母のような感じでもあります。 そして、そんな叔母のことを、私はうんと小さいときから、大好きでした。 大正、昭和、そして平成と3つの時代を生きた、98歳の大往生。 でも、どんなに長生きしてもらっても、お別れというのはやはりつらいものです。もっともっと一緒にいたかった、もっとお話を聞きたかった、そんなことばかり思ってしまいます。 棺に横たわる叔母の顔は安らかで、うっすらと微笑んでいるようでした。まるで今にもふっと目を覚ましそうな、やさしいお顔。 祖母と同じく、最後の最後まで、しっかりとしていて、見事な生き様、そして死の迎え方でした。 祖母もきっとそんな娘を誇らしく思ったのではないかと思います。 親戚中から愛されていた叔母は、「一族の生き字引」ともいわれ、ご先祖より続く我が家の歴史を、事細かに覚えていました。 忘れかけていた祖母の教えを思い出させてくれるのも叔母でしたし、私の知らない新たなことを教えてくれるのも叔母でした。 だから、私の中にある祖母の教え、祖母の魂、祖母が守った武士道は、叔母の精神でもあるのです。 叔母は両親の貧しい時代に生まれたため、幼い頃から苦労のしっぱなしでした。 嫁いでからは、長男が三歳の時に夫を結核で亡くし、その後は女手ひとつで息子を育て上げました。平時でもたいへんなことなのに、第二次大戦中などはどれほど苦労したかと思われます。 けれど、祖母に似て気丈な叔母は、両親を頼ることなく、しっかりと自分の暮らしを守っていきました。 ひとつ、祖母とちがうところがあります。 祖母はおだやかな中にも近寄りがたいような威厳がありましたが、叔母は全身からやさしさがにじみ出ているような感じで、近づかずにはいられない、といったふうでした。 苦労をしたのに、その痕跡がまったくみあたらない。それに、「つらい」「苦しい」「悲しい」といったことは、言ったことがありませんでした。 いつでもニコニコと笑顔で、楽しいことしか言わないのです。 ただ、今年のお正月に、ひとことだけ、「私は何のために生まれてきたのかしら」と、ぽつりと言ったのです。 私はおろおろしてしまいました。 あの叔母が、たぶん生まれて初めて吐いた弱音です。 元気なように見えても、だいぶ体がつらかったのかも知れません。そして、心に思うこともたくさんあったのでしょう。もしかしたら、自分の死期が近いことを感じたのかも知れません。 「おばさんがいてくれるだけでうれしいの。100歳でも120歳でも、うんと長生きして、お願い」 私はそう伝えるのが精いっぱいでした。 叔母は淋しそうに微笑んで、もう十分長生きしたからねえ、といいました。 そんなことがあっただけに、叔母の死顔が安らかだったことは、わずかに慰めとなりました。 一人になってから、花を持って墓所へいきました。 お墓へ続く細い道を歩きながら、そこに祖母が待っていてくれているような気がして、私は思わず泣き出してしまいました。 抑えようとしてももうだめで、子どものようにしゃくりあげてしまうのです。 泣きながらお墓をきれいに掃除していたのですが、ある時点で、ぴたりと泣くのをやめました。もう抑えられる程度になっているのに、抑えようともせず泣いている自分に気づいたからです。 気づいた以上は、もうだめでした。それ以上泣くのは、自分の悲しみに酔っていることになる、と思ったのです。 祖母が見ている前で、そんなことはできません。 でも、ほんのいっときだけ声を上げてないたせいでしょう、少しすっきりしました。 亡くなった先祖の名を、ひとりひとり、指先でなぞりながら、「もうすぐそちらへ叔母がまいります。どうぞ、ご苦労様とお迎えくださいますように」と、お願いしました。 祖母と叔母が教えてくれた、強く生きるための武士道。 永のお別れのあとでも、私の中で生き続ける、目には見えない宝物です。 ※恐れ入りますが、来週の水曜日の更新は、お休みとさせていただきます。何卒ご容赦のほどお願い申し上げます。 |
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